日々のこと

井から出た蛙は、そこを大海と思い込む。

こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。

 

「井の中の蛙大海を知らず」

そんな言葉があります。

知識、見聞が狭く、またそれにとらわれて広い世界があることに気づかず、得意になっている人を揶揄する言葉。

 

でも今日、「一度井から出た自覚がある人ほど、井の中の蛙になりやすいのではないか」と思いました。

今日は、そんな話を少し。

1つの井から抜けた感覚

 

これはもしかしたらポジショントークになってしまうかもしれないんけど、僕は人生で何度か、「1つの井から抜けたな」と感じたことがあります。

新卒で入社した会社を辞めた時、

FBで自分の書いたブログをシェアした時、

初めてpolcaをやった時、

企画書を書いて自分で仕事をつくった時。

それらの時を境に、それまで頭でしか理解できなかったいわゆる”すごい人たち”の言葉のいくつかを、体感レベルで理解できるようになった。

 

「理解できなかった過去の自分」と、「理解できている今の自分」とを、はっきりと認識できるようになりました。

インターネットという”大海”

 

そんなある種の驕りに拍車を掛けるのが、インターネットの存在です。

インターネットという”大海”には、たくさんの人がいる。

中には自分が最近理解できるようになったことを、もっと以前から発信していた人もたくさんいます。

 

そんな人たちを見て感じてしまうのは、自分の理解への確信です。

“すごい人たち”の言葉に共感し、安心する。

“井の外側にいる今の自分”に、より一層の確信を持つ。

 

でもこれは、すごく危ういことだなと思います。

人が考えるのを辞める時

 

ところで、人が考えるのを辞めるのはどんな時でしょうか?

それは、自分の考えに確固たる自信を持っている時です。

自分の考えをある種の前提条件として扱い、「そういうものだ」と言い切った時、人は考えるのを辞める。

 

意見を異にしているのが、完全なる他者であればいいんです。

「人は人、自分は自分」じゃないけど、共感できなくても他者の意見として尊重することができる。

 

厄介なのは、意見を異にしているのが過去の自分(と似た考えの他者)であった場合です。

自分は変わった、あるいは変われたという自覚がある人ほど、「理解できなかった過去の自分」を認識している。

今の自分の方が正しいと思い込んで、考えるのを辞める。

大海なんてない

 

でも、それじゃあダメなんだろうなと。

変化の激しいこの時代に、確固たる大海なんて多分ない。

 

井はきっと入れ子構造になっていて、井の外側にはまた井がある。

今日も自分の知らないところで、新しい井が建設されてる。

自分よりも外側にある井の景色が、自分よりも内側にあった井の景色と似ているということだって、ありえない話ではないはずです。

 

一度井から出た自覚のある人ほど、井の中の蛙になりやすい。

いつなん時も、自分の確信に疑いの目を向ける余白がなくてはなりません。

終わりに

 

以上です。

そんなことを考えて、今日こんなツイートをしました。

また来てね!

 

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