こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
「井の中の蛙大海を知らず」
そんな言葉があります。
知識、見聞が狭く、またそれにとらわれて広い世界があることに気づかず、得意になっている人を揶揄する言葉。
でも今日、「一度井から出た自覚がある人ほど、井の中の蛙になりやすいのではないか」と思いました。
今日は、そんな話を少し。
1つの井から抜けた感覚
これはもしかしたらポジショントークになってしまうかもしれないんけど、僕は人生で何度か、「1つの井から抜けたな」と感じたことがあります。
新卒で入社した会社を辞めた時、
FBで自分の書いたブログをシェアした時、
初めてpolcaをやった時、
企画書を書いて自分で仕事をつくった時。
それらの時を境に、それまで頭でしか理解できなかったいわゆる”すごい人たち”の言葉のいくつかを、体感レベルで理解できるようになった。
「理解できなかった過去の自分」と、「理解できている今の自分」とを、はっきりと認識できるようになりました。
インターネットという”大海”
そんなある種の驕りに拍車を掛けるのが、インターネットの存在です。
インターネットという”大海”には、たくさんの人がいる。
中には自分が最近理解できるようになったことを、もっと以前から発信していた人もたくさんいます。
そんな人たちを見て感じてしまうのは、自分の理解への確信です。
“すごい人たち”の言葉に共感し、安心する。
“井の外側にいる今の自分”に、より一層の確信を持つ。
でもこれは、すごく危ういことだなと思います。
インターネットの面白さは、自分と本当の意味で価値観の近い人と巡り会えること。でもそれは同時に怖さでもある。一度井から出た自覚のある蛙は、そこが大海だと思い込む。
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2019年5月3日
人が考えるのを辞める時
ところで、人が考えるのを辞めるのはどんな時でしょうか?
それは、自分の考えに確固たる自信を持っている時です。
自分の考えをある種の前提条件として扱い、「そういうものだ」と言い切った時、人は考えるのを辞める。
意見を異にしているのが、完全なる他者であればいいんです。
「人は人、自分は自分」じゃないけど、共感できなくても他者の意見として尊重することができる。
厄介なのは、意見を異にしているのが過去の自分(と似た考えの他者)であった場合です。
自分は変わった、あるいは変われたという自覚がある人ほど、「理解できなかった過去の自分」を認識している。
今の自分の方が正しいと思い込んで、考えるのを辞める。
大海なんてない
でも、それじゃあダメなんだろうなと。
変化の激しいこの時代に、確固たる大海なんて多分ない。
井はきっと入れ子構造になっていて、井の外側にはまた井がある。
今日も自分の知らないところで、新しい井が建設されてる。
自分よりも外側にある井の景色が、自分よりも内側にあった井の景色と似ているということだって、ありえない話ではないはずです。
一度井から出た自覚のある人ほど、井の中の蛙になりやすい。
いつなん時も、自分の確信に疑いの目を向ける余白がなくてはなりません。
終わりに
以上です。
そんなことを考えて、今日こんなツイートをしました。
君が前提条件として扱っていることは、本当に正しいのか。自分の信じたいことを信じていないか。
身の回りの10人が10人同じことを言ったとしても、10万人が同じことを言う根拠にはならない。正しさの証明にはならない。
氷山の一角を見て、全てを見た気になっていないか。— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2019年5月3日
また来てね!
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