こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
昨日、こんなブログを書きました。
以下に一部引用します。
続けるべきことと辞めるべきことを見極めるのは、もはや”センス”としか言いようがないと思います。
どれだけ多くの事例に触れて、物事を判断するセンスを磨けているか。
またセンスについては、先日こんなツイートをしました。
センスが良いとは、選択の質が高いこと。言葉のチョイスこそ違うけど、以前似たようなことを書いてた。
“優れているということは、より良質な選択をし続けるということ”
“より多くの事例を知っていて、より多くの選択肢を思いついて、より良質な選択をし続けること”https://t.co/ZwrMUI61Gk— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2019年3月14日
これらを要約すると、以下のような内容になる。
辞めることにはセンスが必要。
センスとは、選択の質が高いこと。
センスを磨くためには、多くの事例に触れていること。
実は今日、この内容を改めて見返してみて、「どうも腑に落ちないな」と感じました。
「辞めることにはセンスが必要。」
ここはわかる。
「センスとは、選択の質が高いこと。」
ここもまあ、わかる。
「センスを磨くためには、多くの事例に触れていること。」
ここが、なんとも言えない。
辞めることに必要なのはセンスだと思うんだけど、多くの事例に触れていれば辞めるセンスが身に付くのかと言われると、そういう訳でもないだろうなと思います。
前置きが長くなってしまったけど、今日はこの”センス”について、もう少し掘り下げて考えてみます。
センスとは何か
まず、センスについて。
僕が思うセンスとは、選択の質の高さです。
無数にある選択肢の中から、より良い選択ができるということ。
冒頭の話で言えば、辞めるか続けるかの二択で適切な方を偉べるのが、センスの良さです。
洋服選びなんかも、結局は同じ話。
センスが良いということは、選択の根拠になりゆる事例をたくさん知っていること。
辞めた先、続けた先の自分を、正しく想像できるだけの知識をたくさん持っているということです。
秀才と天才
センスの良さは、絶対評価よりも相対評価としての色が強いです。
誰かに対して「センスが良い」と感じるのは、自分がその選択をできるかどうかを考えたときに、難しい、あるいは不可能と感じることと同じ意味。
つまりセンスの良さとは、受け手と対象者との間にある、「持っている事例」の差によって生まれます。
ちなみにセンスの良さは、秀才タイプと天才タイプとに分かれます。
受け手からみて、その選択をするのが難しいと感じるのが「秀才タイプ」。
その選択をするのが不可能と感じるのが「天才タイプ」です。
この違いは、対象者がどこから情報収集をしてきたかに由来します。
「辞めるセンス」を考えた時出てきた違和感
…ここまでが、僕が今までセンスについて考えていたことです。
これを踏まえて、昨日書いた「辞めるセンス」の話は、また少し違うなと思った。
辞めるために必要なのは、センスです。
これはしっくりきてる。
ただ根拠となりうる事例をたくさん知っているということは、辞めるセンスを持つための十分条件ではないと思う。
辞めるセンスとは、単に事例をたくさん知っているだけではなく、本来結びついていない事例を結びつけて、まだ見えていない未来を想像する力のことであると思います。
あるいは、自分の持っている事例だけでは分かり得ないことを知る力。
勘の良さ、といった方が正しい気がする。
センスを考え直す
ここまで考えた時、僕が今まで思っていたセンスは、その定義として若干の不足があるなと思いました。
「センスとは、選択の質の高さ。」
ここは、多分間違っていない。
「センスが良いということは、選択の根拠になりゆる事例をたくさん知っていること。」
ここが違うと思う。
思うにセンスの良さには、先に書いた相対評価としてのセンスの良さに加えて、絶対評価としてのセンスの良さがあるのだと思います。
二種類別々に存在しているというよりかは、二層に別れているというイメージ。
単に根拠になりゆる事例をたくさん知っているだけではなく、そこから良質な選択に昇華させるための力も大事。
終わりに
以上です。
とはいえ良質な選択に昇華させる力も、結局事例をいくつ知っているかの話であるような気もしています。
正直この話はまだあまり詰められていないので、もう少し寝かせてみます。
またきてね!
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