こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
こないだデートでした。
今日はデートです。
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2018年9月5日
この日は結構いろいろ話しました。
自分にとって「好き」とは何か、誰かと身内になるとはどういうことか。
今までぼんやりとしか考えてこなかったことを、これでもかというほど考えた。
今日は、その覚書です。
参照:恋愛観と結婚観
「自分」の範囲を拡げること
先日、こんなツイートをしました。
最優先事項は、「自分」が幸せであること。
自分の幸せを妨げるあらゆる事項を取り除いて、可能な限りシンプルに生きたい。周りの人の幸せを願うのは、その次。
誰かと身内になるということは、「自分」の範囲を広げること。自分が幸せである条件の一つに、「その人が幸せであること」を加えること。
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2018年9月5日
このツイートに書いた通り、僕にとっての最優先事項は、「自分」が幸せであることです。
「自分」にまつわること全て、仕事も暮らしも人付き合いも、「自分」が幸せであるためのツール。
「自分」を不幸にしてまでやるべきことなんて、何一つないと思っています。
それがたとえ、世間一般の正しさから外れていたとしてもです。
誰かと身内になること(男女問わず、特別親密であること)は、「自分」の範囲を拡げること。
最優先事項である「自分の幸せ」の条件に、「その人が幸せであること」を加えること。
「自分」を不幸にしてまでやるべきことなんて、何一つないと思っています。
それがたとえ、世間一般の正しさから外れていたとしてもです。
無条件に「好き」であること
身内であることの条件は、その人のことを「好き」であること。
特別、「好き」であること。
「好き」であることの条件は、特にありません。
もちろん「好き」の入り口にはいろんな理由があるわけだけど、一旦「好き」になってしまえば、そこの条件は特にない。
「好き」であることの条件がないということはつまり、その人がこれからなにを思ってどう変わろうとも、変わらず「好き」であるということです。
なんでも気兼ねなく話して欲しいし、なにを話してくれても受け止める準備はできている。
でもその人が自発的に話してこないことについて、無理に聞き出したいとは思いません。
なにを話してくれても変わらず「好き」であるのと同じように、なにも話してくれなくても、変わらず「好き」であるからです。
より「自分」が幸せになる方を、自由に選べばいいと思っています。
「好き」であることが一番大事
だからこそ僕にとっては、前提にある「好き」であるという事実がとても重要です。
「好き」であるからなんでも気兼ねなく話せるし、「好き」であるから、なにも話さないという選択が取れる。
本来「好き」に確信を持つためには、ある程度まとまった時間が必要なのだと思います。
だから付き合いが短いうちは、「好き」の取り扱いが難しい。
僕が意識しているのは、「好き」を言葉で伝えること。
どんなに心の距離が近くても、個体としては別物です。神経は繋がっていない。
であれば、そこは言葉でフォローするしかないのかなと思っています。
「好き」の安売りになってしまうのは重々承知だけど、今のところ僕は、それ以上に効果的な方法を知りません。
終わりに
以上です。
このブログを書いていて思い出したのは、先日したこのツイートです。
昨日久しぶりに地元の飲み会に顔だしたら、「みんな木津のこと心配しているよ」という謎の慈悲を受けてしまい心底疲弊した。理解できなくてもせめて歩み寄ろうというスタンスで生きているんだけど、あそこまで見下されるとそれすらアホくさくなる。視野の狭さに呆れたし、悔しい通り越して同情した。
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2018年9月6日
このツイートについては、ブログも書きました。
多分僕は、悔しかったわけでも同情していたわけでもなくて、本当は単に悲しかったんだと思います。
昔の自分を「好き」でいてくれた人が、今の自分を「好き」でなくなってしまったことを悟ったことが。
「好き」を伝えようとしても、うまく伝わらなかったことが。
そしてそれに伴い、自分の中の「好き」がゆっくり冷めていくのがわかったことが、すごく悲しかったんだと思います。
締めが重いね。
また来てね!
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