こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
昨日株式会社Wasei代表の鳥井さん(@hirofumi21 )が、こんなツイートをされていました。
「暮らし」って意志が強い分、その言葉を好んで選ぶ若い人たちがどうしても排他的になりやすいんですよね。「それ以外は一切認めません」というような。だから、「今は生活のほうが合っているような気がする」という最所さんや田中さんの気分はとてもよく理解できる。おまえが言うなって感じですが…。
— 鳥井 弘文 (@hirofumi21) 2019年1月6日
僕自身この「暮らし」という言葉を多用する側の人間であるので、いくらか考えさせられることがありました。
自分はどんな意図を持って、この言葉を使おうとしているんだっけ。
「暮らし」という言葉の持つ意思
まず、冒頭の鳥井さんのツイートを補足させてください。
鳥井さんは以前ご自身のブログの中で、「暮らし」という言葉に関してこんなブログを書いています。
外部リンク:「暮らし」が清廉潔白になる理由。
以下に一部引用します。
思うに、「暮らし」という言葉の文脈には、戦争に対してのカウンターとしての意味合いが強いのだと思います。
それはやっぱり、間違いなく雑誌「暮しの手帖」の影響です。
花森安治さんが自身の戦争体験をもとに「暮しの手帖」を創刊したこと、そしてこの雑誌が人気になっていく過程で、戦後の「暮らし(暮し)」文脈が形成されたことにある。
(中略)
そして、現代において改めて「暮らし」が見つめ直されている理由もきっとそこにあるのだと思います。
現代であれば更に過剰労働(過労死)や精神的苦痛(ストレス)に対してのカウンターの意味合いも含まれてくるのでしょう。
だからこそ、「暮らし」という言葉はある種、清廉潔白にならざるを得ないのだろうなあと。
何かしらの“正しさ”が求められてしまうからです。
現代では、戦争に加え、過剰労働(過労死)や精神的苦痛(ストレス)に対してのカウンターの意味合いが「暮らし」という言葉に含まれている。
それはすなわち、「失ってしまった私たち本来の日常を取り戻そう」というある種の意思でもあり、そこには何かしらの正しさが求められてしまうのだろう。
そんなことを、鳥井さんはおっしゃっています。
また現在用いられているこの「暮らし」という言葉には、いわゆる「丁寧な暮らし」としての意味合いが強くなっている。
そして言葉の持つ意思によって、不用意にこの言葉を使うと、「それ以外は一切認めません」という排他的な姿勢を受け手に感じさせてしまうのだろうなと思います。
取り戻すべき日常と、丁寧な暮らし
冒頭の鳥井さんのツイートを受けて、僕がしたのがこちらのツイートです。
これはすごく面白い。「暮らし」という言葉を多用している僕や土田の暮らしは丁寧さとはほど遠くて、むしろ「暮らしってそんなに丁寧じゃなくても良くない?」というスタンスなんだけど、言葉自体の意志が強いのであれば、扱う言葉を変えた方がミスリードを防げるのかもしれない。 https://t.co/giwUeJnywi
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) 2019年1月6日
こちらのツイートにあるように、「暮らし」という言葉を多用する僕の暮らしは、それほど丁寧であるとは言えません。
そもそも、そこを目指していない。
それでも僕が「暮らし」という言葉を使いたがるのは、現代において取り戻すべき私たちの日常、すなわち”良い”暮らしとは、「丁寧な暮らし」とはまた別のところにあると思っているからです。
僕の思う”良い”暮らし
今まで特に言語化してこなかったけど、おそらく僕の思う「良い暮らし」とは、「愛着の持てる暮らし」のことなんだと思います。
洗練された部分も洗練されていない部分も全部ひっくるめて、「なんか好きだな」と思える暮らし。
僕は今、『居候男子』という肩書きのもと、各地域に3週間から2ヶ月間滞在して暮らしの実態を見に行くという活動をしています。
この活動を通じてやりたいのも結局、僕の思う「良い暮らし」を見つけることなんだと思う。
洗練された部分も洗練されていない部分もこの目で見て、まずは自分が愛着を持ちたい。
僕を通じてその暮らしの魅力を誰かに伝えたいというよりも、僕を通じて、その暮らしに愛着を持つ人を増やしたていけたらいいなと思っています。
そんなことが、できるかどうかはわからないけど。
「暮らし」という言葉を使うかべき否か
はじめの話に戻ります。
「暮らし」という言葉に紐づくイメージがミスリードを引き起こしうるのであれば、僕がこの言葉を使うのはあまり上手くないなと思います。
現代においては「暮らし」よりもフラットな印象を与える、「生活」という言葉の方が良いのかもしれない。
でも僕は、もうしばらく「暮らし」という言葉を使ってみようと思います。
私たちの日常を取り戻したい、あるいは新たな「良い暮らし」を描きたいという、意思はあるから。
目指している「良い暮らし」の定義が、ほんの少し違うだけだ。
もう少し打算的な話をすると、全くフラットな「生活」という言葉を使うよりも、「暮らし」という言葉を使って各々の持つイメージを書き換えてもらう方が、勝ち筋があるような気もしています。
多分、違和感は既にある。
暮らしってそんなに丁寧じゃなくても良くない?
終わりに
以上です。
少し前の土田(@Ryotsuchida)のツイートの中で、僕が言っていることも結局同じ話です。
木津@ayumukizu は主張の薄い写真が好き、みたいな話をするんですが、自分はこれを考えたことはあっても撮ったことはなくて。
ここが見るところだよ!と全員に訴えるでもない考えどころを持たせる写真も撮っていきたいと思いました。むずかしい。 pic.twitter.com/qH5Df5mldE
— 土田凌 (@Ryotsuchida) 2018年12月27日
焦点をぼかして「なんか好きだな」でとどめた方が、本当の話に近いような気がする。
また来てね!
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