こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
先日友人と話していて、”人に理解されない勇気”について考えたので、そのことを書きます。
“評価される自分”と”表現したい自分”
友人が話していたことは、ざっくりいえばこんな内容です。
「周囲から自分の取り組みを評価してもらっているが、解釈のされ方が少し違う気がしている。」
これはどういうことかというと、友人の取り組みを評価している人が、その取り組みの魅力について語る内容が、その友人にとって必ずしも納得感のあるものではない、ということです。
これでも少しわかりにくいかもしれませんが、とりあえず続けます。
“評価されている自分”と”表現したい自分”との間に、若干の差異がある。言語化もしづらいほどのわずかな差異。
友人はそれを敏感に感じ取って、「少し距離をとらないとまずい」と感じたのだそうです。
“評価される自分”を目指すのは危うい
僕らはついつい、”評価される自分”を目指してしまう。
身近なところでいうと、twitterのいいね数。RTはまたちょっと別です。
一生懸命考えたツイートに全くリアクションがないと、少し悲しい気持ちになる。僕だけだったら恥ずかしいなこれ。
だからついリアクションをたくさんもらえそうなツイートを目指してしまいがちだけど、”評価される自分”を目指すのは、とても危ういなと思います。
“いいね”を押してくれるのは自分のフォロワーで、つまりそれは、”今までの自分”を応援してくれている人たちです。
必ずしも、”これからの自分”を応援してくれる人であるとは限らない。
“これからの自分”の指針を、”これまでの自分”を応援してくれている人たちに委ねると、いつか自分の首を締めることになるような気がしています。
“評価される自分”を目指すことは、”これからの自分”を”今までの自分”に寄せることで、それはつまり、自分の健全な成長を妨げることになりかねないと思っています。
理解されない勇気を持つこと
友人の話に戻ります。
“評価されている自分”と”表現したい自分”との間に差異を感じた時、“評価されている自分”を目指すのは簡単です。
すぐに称賛してもらえるし、目指すべき状態を言語化してくれている場合も多い。
それでも”表現したい自分”から目を背けたら、すなわち自分の軸を捨てたなら、どこかでメッキが剥がれてしまうような気がしています。
だからその友人が、「少し距離をとらないとまずい」と言った時は、さすがだなと思いました。
“評価されている自分”に引っ張られることで、”表現したい自分”がブレる可能性があることを察したのだと思います。
“評価される自分”ではなく”表現したい自分”を目指すこと。
それは、周囲の人から理解されない勇気を持つことと同じだと思っています。
理解されようとすることに、意味がないとは思いません。
でも”表現したい自分”が本物であるなら、いつかまた自分のことを理解してくれる人に出会えるはずです。
終わりに
以上です。
昨日まで東京の友人が遊びにきていて、これでもかっていうくらい遊び倒したので、今日は真面目なことを書きました。
今日も全部ここにありました。#ぼりちゅに邸 pic.twitter.com/4cLYFSSyMf
— ぼりさん (@borilog) 2018年6月20日
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