日々のこと

ひとの純度にあてられる。

こんにちは。木津です。

早く起きてしまったのでブログ書きます。

昨日はガクソーのメンバーと、地元の高校を絡めた教育プログラムの企画ブレストをしていました。

その時に考えたことを少し。

ガクソー(中田文化額装店)の概要。

ガクソーについてこのブログで触れたことは殆どなかったと思うので、簡単に概要を説明しておきます。

ガクソーは、石川県珠洲市の商店街にある空き家を利用したスペースで、2020年11月に移住者仲間らで物件を借りて、みんなでDIYして作りました。

もともと額縁屋を営んでいた物件に因んで『中田文化額装店』と名付けられたその場所は、地域発信と教育支援を主な目的に据えており、2022年からは『NPOガクソー』として法人化。

地域の中高生に勉強を教えたり、デザイン・アートの素養を一緒に育んだり、学校に通うのが難しい子供たちの支援をしたりと、特に法人化してからは、教育支援の軸でより積極的に活動を展開しています。

ガクソーについてより詳しく知りたい方は、HPや取材記事をみてみて下さい。

参考:NPO法人ガクソー

参考:アートやデザインが学べる、まちなかの部室? 人口13000人の珠洲市にできた、NPO法人ガクソー(外部リンク)

今日はあえて表面しか触れていないのですが、ガクソーについてちゃんと書こうとすると20本くらいの記事に分けて、かつ書きながら考えていく感じになるような気がしています。

ガクソーは僕にとって珠洲でもっとも身近な場所であり、もっとも分からない場所でもあるからです。

「敵わないな」という感覚。

冒頭の話に戻ります。

教育プログラムの企画ブレストをしている時に、メンバーの一人が話していたことが印象に残っています。

 

彼がとあるアーティストの手伝いをした時の話。

そのアーティストの方は普段話している時は普通なんだけど、いざパフォーマンスが始まるタイミングになると、目が変わるのだそうです。

覚悟というか、気合いというかが目に現れていて、それを見て、彼は「敵わないな」と思ったんだとか。

僕の記憶で書いているので実際に「敵わないな」という表現だったかはうろ覚えだけど、そんな話をしていました。

そして僕も、その「敵わないな」という感覚には覚えがあります。

ひとの純度にあてられる。

お恥ずかしい話ではあるけども、僕はその「敵わないな」という感覚を、身近な存在であるガクソーメンバーたちに感じたことがあります。

その感覚はなんなのか、どうしてそう感じるのかずっと分からなかったのだけど、昨日そのアーティストの目の話を聞いて、なんとなく分かった気がする。

 

多分それは、純度の話です。

思考と言動にどれだけ差異がなく、どれだけ自分自身の意思に忠実にやっているか、という話。

そしてここでいう「敵わないな」という感覚は、対面するその人の純度にあてられている、ということだと思います。

純度の高いひとと対面して、自分の中の濁りに目が向いてしまう状態。

 

かくいう僕も、自分自身の純度を高く保つことの重要性はよくわかっていたつもりです。

実際、過去にもそんなことをテーマに何度か記事を書いています。

参考:思考と言動に差異がないこと

でもそれは家もなく、仕事もロクにせずに全国を放浪していた時の話で、ある意味社会との関わりが弱かったからこそ(悪い意味ではない)、自分の純度を保つのが比較的簡単だったのだと思います。

色んな所属や関係性のある今の方が、自分の純度を保つのが遥かに難しい。

でもそんな今こそ、自分の純度に改めてちゃんと向き合う必要があるのだろうなと思っています。

 

僕が「ブログを書かないといけない」と思ったのも、自分の純度を取り戻す必要性を感じてたんじゃないかなあと思う。

参考:長らく会えていない友人へ。

おわりに。

以上です。

ガクソーは美術にゆかりのある人が多いせいなのか、純度が高い人が多いなあと思っています。

僕はそんな彼らの純度に時々あてられてしまうことがあるのだけど、昨日の話で、ガクソーのみんなも同じような感覚を持っているんだとわかって微妙にほっとしました。

もっかい寝ます。

おわり。