こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
今年の5月から、石川県の珠洲市に住んでいます。
珠洲では今週末もラーメンを出すそうで、今日は仕込みをしています。
様になりすぎて面白い。#居候男子珠洲 pic.twitter.com/jJSk2NMtMC
— 木津 歩 (@ayumukizu) August 13, 2020
今日は、この1週間で考えたことをつらつら書いていきます。
やや長いですが、見出しごとに内容が完結しているので、見出しを見て気になったものだけ読んでみてもらえると嬉しいです。
今ココを豊かにするためのインプット。他
8/10から8/16までの備忘録です。
コミュ力より大切な、言語域の広さ。
少し前に、こんなツイートをしました。
地方創生の文脈で、「トリリンガル」と称される人たちがいる。「移住者」「行政」「地元の人」それぞれのニーズを理解し、それぞれの顔を立てながら間を持てる人のことを言うのだけど、僕はまた異種のトリリンガルになりたい。「移住者」「行政」に加え、「町外の人や企業」の間を持てる人になりたい。
— 木津 歩 (@ayumukizu) July 12, 2020
ここでは、この話を少し。
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業界や年齢、あるいは公民の立場を超えて、より多くの人と同じ目線で話をすることができる人、というのがいます。
例えばあなたの周りにも、ふた回り以上も年の離れた人と二人で飲みにいくなど、社会的な立場や世代を超えて親睦を深められるような人が、一人や二人はいるはずです。
そんな人は、世間一般では「コミュニケーション能力が高い」と称されることが多いと思うのですが、僕はそんな彼らの能力は、「コミュニケーション能力が高い」というより、「言語域が広い」場合が多いではないか、と思っています。
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「言語域」とは(あくまでも僕の造語ですが)、理解できている価値基準の範囲です。
例えば冒頭のツイートで、「移住者」と「行政職員」という2つの人種について見てみると、彼らは根底にある価値基準がかなり異なっているケースが多いです。
ある意欲的な移住者が、「このアイデアは斬新で面白い!」と鼻息を荒くして考えた企画が、行政に持ち込んだら全く相手にされなかったというのは、日本各地でとてもよく聞く話。
これは、担当した行政職員の頭が硬かった、のではなく、「移住者」と「行政職員」の価値基準が違うことによって起こっている場合が多いです。
多くの行政職員の価値基準は、「斬新で面白いこと」ではなく、「行政の掲げている目標に対し有効であること(が、数字で示されていること)」にあるはずだから。
このような価値基準の違いは、「移住者」と「行政職員」という2つの人種に限ったことではなく、解像度を上げていけばそれこそ無数に存在します。
より多くの価値基準を理解しており、様々な人種と近い目線で話すことができる能力のことを、僕は「言語域が広い」といっています。
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さて、はじめの話に戻りますが、「言語域が広い」ということと、「コミュニケーション能力が高い」ということとは、似ているようで少し違う話だと思っています。
コミュニケーション能力は、例えば「自分の話をするのではなく相手の話を聞く」だとか、「お互いの共通点を探す」だとか、主に対面してから発揮されるイメージが強いです。
一方で言語域の広さは、対面したその時点までに、「相手の人種の価値基準に踏み込んだことがあるか」が重要。
先の例で言えば、「行政職員」をやったことがある「移住者」は、行政職員の言語域をカバーできている可能性が高く、話を通しやすいはずです。
つまり、コミュニケーション能力は高くないが、言語域が広いがために話がスムーズに進められるということが、特に違和感なく普通に起こり得ます。
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言語域の話はまだまだ書けそうなのですが、長くなってしまうのでまた別の機会に書きます。
(終)
今ココを豊かにするためのインプット。
先日、こんなツイートをしました。
終日何も予定がなくて、1日カフェにこもってひたすら小説を読むという至高の贅沢を最近全然できていないな。というか、そんな過ごし方の贅沢さをすっかり忘れていた気がする。
— 木津 歩 (@ayumukizu) August 12, 2020
ここでは、この話を少し。
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僕含め、フリーランスとして働く同世代の人と話していてよく思うのは、「僕らは”役に立つこと”に囚われ過ぎているのかもしれないなあ」ということ。
例えば僕が図書館や書店に足を運んだ際は、自分の仕事と関連性の強い「地域活性化」や「観光・ツーリズム」、あるいは最近興味のある「語学」や「デザイン」の棚を重点的に見ています。
また休日に友人とどこかに出かける際には、仕事と関連性の高い活動や展示会など、自分の仕事に直結するような場所を選ぶ節がある(今だったら、参加するオンラインイベントをイメージしてもらった方が良いかもしれません)。
今までの僕は、そういった”役に立つこと”を優先的に選ぶ自分に疑問を持つことはなかったのですが、最近どうも、「これじゃあダメだなあ」と感じるようになりました。
僕がそのように感じた理由は、
・役に立つことにこだわり過ぎると視野が狭くなるから。
・隣の領域を学ぶことが自分の領域を学ぶことにも繋がるから。
などなど幾つかあるのですが、どうもそれもズレている気がして、まずは図書館で小説を借りてみることにしました。
最近全然小説を読めてなかったので、図書館で借りた。 pic.twitter.com/b3jyQmprEO
— 木津 歩 (@ayumukizu) August 12, 2020
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小説を「役に立たない」と言うつもりは全くないけど、少なくとも小説を読むことが、最近の僕にとっての”役に立つこと”に含まれていなかったのは事実です。
だから僕は、小説を読むことの優先順位を今ひとつ上げてこれなかったのだと思う。
でもいざ小説を読んでみたら、世界がひっくり返るような衝撃がありました。
何より感動したのは、小説を読む時間が、僕にとって「過ぎて欲しくない時間」だったということです。
僕は、”役に立つこと”に該当する本を読むとき、ほぼ無意識に「いつまでに読み切るか」を考えながら読んでいます。
というのも、その本を読むことの価値は、その本を読み切って中に書かれていることが自分の血肉になった先にあるからです。
だからこそ、本を読んでいる時間は、今までの僕にとって「早く過ぎてほしい(完了したい)時間」であったと思います。
でも小説を読んでいる時間は、先に書いた通り、僕にとって「過ぎて欲しくない時間」でした。
これはつまり、小説を読むという行為が、未来を豊かにするための行為ではなく、今ココを豊かにするための行為であったということです。
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一連の体験で一番良かったのは、「今ココを豊かにするためのインプット」の価値(存在?)を知り、肯定できるようになったことです。
今までの僕は、インプットは未来を豊かにするための投資であり、今ココを豊かにするのはインプットではなく体験だと、随分長いこと信じ込んでいたように思います。
今ココの豊かさは、生きるためのセンスを磨きます。
もし僕と同じように、インプットを”未来を豊かにするための投資”として捉えている人がいたら、”今ココを豊かにするための行為”としてのインプットを是非一度意識してみて下さい。
(終)
終わりに
以上です。
先週はたっぷり遊んだので、今日は2本のみの更新でした。
今週は作業ウィ〜クになりそうです。
またきてね!