こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
今年の5月から、石川県の珠洲市に住んでいます。
今回は、昨年までよくしていた1ヶ月程度の滞在ではなく、もっと長期的に住むことを前提とした「移住」です(住民票も移した)。
珠洲で畑やってる人たち(我々)と釣りやってる人たちで食材持ち寄ってBBQなどした。#居候男子珠洲 pic.twitter.com/rDw3qBKNST
— 木津 歩 (@ayumukizu) August 1, 2020
今日は、この1週間で考えたことをつらつら書いていきます。
やや長いですが、見出しごとに内容が完結しているので、見出しを見て気になったものだけ読んでみてもらえると嬉しいです。
流行り言葉とどう付き合うか。他
7/27から8/2までの備忘録です。
流行り言葉とどう付き合うか。
最近、「ワーケーション」という言葉をよく見聞きするようになりました。
言葉自体は2000年代からあったようなのですが、近年テレワークの普及に伴いジワジワと拡がり、今回のコロナを機に一気にメジャーシーンに出てきたなという感じがしている。
菅官房長官 「ワーケーション」普及で観光促進を #nhk_news https://t.co/wGBhIDFG4b
— NHKニュース (@nhk_news) July 27, 2020
このように、社会状況の変化に伴い急速に拡がってきた言葉は、「ワーケーション」以外にもいくつかあります。
僕は地域活性化やまちづくりに関心があるので、その領域でいうと、「地方創生」や「関係人口」、最近だと「SDGs」なんかもソレにあたる。
そして、こういう文脈で出てきたいわゆる”流行り言葉”は、扱いがなかなか難しいなあと感じています。
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流行り言葉の扱いが難しいのは、その言葉が拡がる前から実践していた人から見て、解像度が非常に低いからです。
解像度が低いだけならまだ良くて、本質とズレたところでその価値が語られてしまっていることも往々にしてある。
だからこそ、不用意に「ワーケーション」や「関係人口」という言葉を使ってしまうと、長年その領域に向き合っていた方に敬遠されてしまう可能性が高く、僕も扱いには注意をしているつもりです。
「関係人口」という概念の危うさは、関係人口が増えると社会がどう良くなっていくのかがきちんと共通認識として広がらないまま、「関係人口=ソーシャルグッドなもの」として言葉だけが一人歩きしていること。言っときゃいいでしょ的な空気は確かにある。
— 木津 歩 (@ayumukizu) December 27, 2018
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また僕自身、むやみやたらに流行り言葉を使ってくる人に対しては、若干警戒というか、懐疑の目を向けてしまうことがあるのも事実です。
さらに言えば、今このブログを読んでくださっている方にしても、そういった流行り言葉の胡散臭さを敏感に感じ取れる方が多いだろうと思っています。
だからこそ、僕が今ここで書きたいのは、「流行り言葉を必要以上に毛嫌いしないようにしよう」ということなんです。
流行り言葉にみられる、ある種の「本質じゃない感」は、その概念がスケールする上で絶対的に必要なフェーズだと思っています。
そして概念がスケールするからこそ、関連する施設やサービスが増えて、これまで長くその領域に向き合っていた人たちにとっても、より生きやすい世界になっていくのだと思う。
スケールする前の段階で、言葉が本質ど真ん中をついているなんてことはまずなくて、概念の本質的な価値が語られるのは、スケールしたその先であるはずです。
であるならば、流行り言葉を必要以上に毛嫌いせず、上手く利用しながら付き合っていく人こそが、その領域とより真摯に向き合っている人なのかもしれないなと、最近は思っています。
(終)
誰にでもアクセスできる情報は面白くない。
最近、転職支援のサービス立ち上げに少し関わっていて、その打ち合わせの中で、こんなことを聞かれました。
「木津くんたちの世代は、転職しようと思ったら、どうやって仕事を探すの?」
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何年か前であれば、転職をしようと思ったら、まずは大手の転職支援サイトに登録してみたと思います。
その後、もう少し小規模でコンセプトのはっきりした転職サイトを覗いてみたり、興味のある企業のリクルートページをのぞいてみたりする。
でもここ最近、(僕含め)僕の周りにいる友人たちを見てみると、上に書いたような仕事の探し方をする人は随分減ったなあと感じています。
彼/彼女らは、知人経由での紹介や、組織の人と直接話す中で仕事を見つけることが多い。
多分これは、誰にでもアクセスできる場所には本当に面白い仕事(求人)がほとんどないことを、みんな感覚的にわかっているからだと思います。
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誰にでもアクセスできる場所に面白い仕事がない理由について、正直いまの時点では確信のある答えは出ていません。
(より多くの人に届ける必要がある分)求める人材像がふわっとしているためなのか、(業務内容が決まりすぎて)提案・調整の余地が少なく見えるためなのか、実際のところはわからない。
ただ、「誰にでもアクセスできる場所に面白い仕事がほとんどない」ということについては、僕と近い世代の多くが共通認識として持っているところなんじゃないかなと思っています。
そしてこれは、仕事に限らず様々な情報についても言えることです。
じゃあ本当に面白い情報はどう捕まえるかというと、やはり情報が集まる「場所」を探すのではなく、自分自身が情報が集まる「人間」になった方がいいんだろうなと。
自分がどんな人間で、どんな情報を求めているかを日々開示しておけば、自然と面白い情報は集まってくるはず。
本当に面白いものや情報は、誰にでもアクセスできる場所には決してない。自分だからアクセスできる場所を増やすために、日々自分を磨こう。
— 木津 歩 (@ayumukizu) July 21, 2020
あとは、情報が集まる「人間の集合体」を作るというのも1つあって、これはコミュニティの話になってくると思うのですが、長くなりそうなのでまた別の機会に書きます。
(終)
書けなくても書く、その意義。
7月後半からブログを再開してみたのですが、なかなか上手く書けずに苦戦することが多いです。
書きたいことは頭の中にあるはずなのに、いざ書いてみたら筆が進まなかったり、頭の中にある考えとズレた主張をしてしまったりして、「ブログ書くのってこんなに難しかったっけ?」と思っている。
そんな話を先日友人にしたら、その人も僕と同じように、書きたいことはあるのに上手くまとまらないことがよくあるそうです。
そして結局まとまらないまま、ブログを書くのを途中で断念してしまうんだとか。
僕はこの話を聞いて、前半までは完全に同意しつつ、途中で断念してしまうのはやはり勿体無いなあと思いました。
僕は、「書けなくても書く(書き切る)」ことにも、大きな意義があると思っているからです。
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やや詩的な表現になってしまいますが、ブログを書くことは、海に潜ることと似ているなと思っています。
海面を陸から眺めて、「この辺りは深そうだな」と思うところに、息をとめて飛び込んでみる。
潜ればすぐに海底の全容が把握できてしまうこともあるけど、思ったより深かったり、あるいは岩が複雑に入り組んでいたりして、なかなか全体を把握できないこともあります。
ブログを書き切る(記事としてまとめあげて公開する)ということは、海に潜って見た海底の形状を、スケッチとして残しておくことに似ています。
なかなか全容が見えないと苦しくなって、僕もついつい引き上げてしまいたくなるんだけど、それでも書き切る、見えた範囲をスケッチしておくことは、とても大切。
一度スケッチに起こしてしまえば、スケッチを元に後日全容にアタリをつけたり、他者からアドバイスをもらったり、次に同じところを潜る時の手がかりにできたりするからです。
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実はこのブログは、所属しているオンラインサロン『waseisalon』内で1本づつ書いた記事を転載し、後日まとめて公開しています。
そして今回掲載している他2つの記事は、waseisalonで公開したものにかなり編集を加えて出しています(waseisalonで書いた時全然うまく書けなかったから…)。
でも、いまこうやって編集を加えられるのは、いうまでもなく一度「書き切った」からです。
少しの時間を経て、前に書いた記事を読んではじめて、書いた当時の自分がどこで苦戦し、どこを直せばいいかがわかった。
僕のように、別の媒体で書いて転載するというのは特殊な運用方法だけど、そうでなくても、一度書き切ってしまって後日また別のタイトルをつけて書けばいいと思います。
そうしないと、苦しい思いをして海に潜った時間が蓄積されていきません。
(終)
終わりに
以上です。
8/5(水)、こんなイベントに登壇します。
【話すよ】
来週8/5(水)20時から、以下のオンラインイベントでお話します。「地域暮らし」はまだまだ新米ですが、コロナ後にパソコン一台(と、トラック一台)を持って能登半島に移住した身として、今考えていることを話してきます〜。https://t.co/Sv2c67z0QM— 木津 歩 (@ayumukizu) August 2, 2020
参考:地域を知り、地域に入り込む暮らしとは??~次の暮らしを考える交流会~(外部リンク)
スライド…作らないと…!!!
またきてね!