こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。
今年の5月から、石川県の珠洲市に住んでいます。
今回は、昨年までよくしていた1ヶ月程度の滞在ではなく、もっと長期的に住むことを前提とした「移住」です(住民票も移した)。
トラック買いました。石川県珠洲市に移住します(2週間は人との接触をめっちゃ避けます)。
土田(@Ryotsuchida )に写真撮ってもろた。 pic.twitter.com/9wxykjtfRI
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) May 26, 2020
今日は、この1週間で考えたことをつらつら書いていきます。
やや長いですが、見出しごとに内容が完結しているので、見出しを見て気になったものだけ読んでみてもらえると嬉しいです。
最近、言葉が出なくなってきた。他
7/20から7/26までの備忘録です。
最近、言葉が出なくなってきた。
最近どうも、言葉がうまく出なくなってきたように感じています。
簡単な自己紹介を求められた時や、意見を聞かれた時、スラスラと口から言葉が出てこない。無理やり捻り出した言葉も、今ひとつ的を得ていない。
これが、とてもよくない。
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スラスラと言葉が出てこない理由は、思い当たる範囲で2つあります。
1つは、今年に入って自分の状況が少なからず変わったこと。
昨年までは無拠点生活のようなことをしていて、それだって特別人に説明しやすいものではなかったけど、何度も人に説明をする中で、説明すること自体に慣れていたように思う。
今年はその時とは状況が変わったので、また別の文脈で自分のことを話す必要があるんだけど、それに自分がまだ慣れていないのだろうと思います。だから、言葉が出ない。
もう1つは、内省と言語化が足りていないこと。もっと端的にいうと、ブログを書いていないこと。
ブログを書くということは、いつか誰かに話すことを、先回りして考えておくということです。
これについては鳥井さんの過去の記事にとてもわかりやすく書かれているので、僕と同じように言葉が出なくて困っている人はぜひ読んでみてください。
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冒頭で「とてもよくない」と書いたけど、よくよく考えてみると、言葉が出ないということは一概に悪いことばかりでもないのかも知れません。
今から1年以上前、僕がもっとスラスラ言葉を出せていた時、こんなブログを書いていました。
以下に一部引用します。
多分僕は、自分に飽きているんだろうなと。
毎日毎日ブログを書いていたら、流石に自分の軸みたいなものが見えてくる。
それはもちろん良いことなんだけど、どんなテーマに対しても「自分らしい答え」に帰着してしまうのは、あまり面白くないなと思っています。
スラスラと言葉が出るということは、自分のことをよく理解できているということです。
逆にスラスラと言葉が出なくなったということは、ある時期までの自分が考えなかったことを、いま新たに考えられているということなのかも知れない。
それはもしかしたら、以前の自分が感じていた自分に対する”飽き”を突破できつつあるということなのかも知れないけど、それと同時に、そろそろ言語化をしないといけないんだろうなあとも感じています。
(終)
思考の不完全性を担保するために。
今日の1つ目の話で書いた通り、少し前から僕は、「そろそろブログを書かないといけないなあ」と思っていました。
参考:最近、言葉が出なくなってきた。
思っていながらなかなか書けなかったのは、相応の更新頻度を保てる自信がなかったからです(自分のキャパシティの問題として)。
書くからには毎日更新、あるいは週に一回、短編集のようなカタチで複数の記事を同時に出すような運営方法を取りたかった。
そうしないと、1つ1つの記事のメッセージ性が強くなりすぎてしまうからです。
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記事のメッセージ性について、少し補足をします。
例えば、以下のようなタイトルの記事がタイムラインに上がってきたとします。
『2020年を振り返る。』
これが毎日ブログを更新している人の記事であったなら、さほど特別な記事だとは受け取られないと思います。
一方でこれが、普段ブログを書かない人が年に一回書いた記事であったなら、相当に思いの乗った特別な記事だと受け取られるはず。
これが、僕がここで言わんとしている、記事のメッセージ性の強さです(「メッセージ性」という言葉が適切かどうかはわからないけど)。
毎日更新、あるいは週一更新の短編集のようなカタチで運営することで、記事のメッセージ性を弱くする必要があると考えていました。
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記事のメッセージ性が強くなりすぎると、内容の不完全性を担保しにくくなります。
確信のないぼんやりとした思考を、仮のものとして出すのが難しくなる。
それは受け手側の問題というよりか、書き手側である僕の気持ちの問題です。
僕にとってブログは内省の場としての意味合いが強いので、仮に不完全であっても、それが自分のリアルタイムの思考とズレていないことの方が重要なんです。
発酵しきっていない思考をその都度無理やりまとめ上げようとすると、本当じゃないことがアーカイブされてしまうから。
参考:発酵する場が世の中には少ないんじゃないかという話(外部リンク)
(終)
「中長期滞在」と「移住」の違い。
今年の5月から、石川県の珠洲市に住んでいます。
すると当然、珠洲市外の人と話をするときは特に、「珠洲での暮らしはどうですか?」という話になる。
なんだかんだ僕もこれまで15ヶ所以上の地域に滞在してきたので、それらと比較しての「珠洲での暮らし」を語ることもできるんだけど、その前に、自分自身整理しておかないといけないことがあるなと。
それが、「中長期滞在」と「移住」との違いです。
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以前から僕と知り合いの方はご存知かも知れませんが、僕は2018年6月から2019年12月までの1年半、国内各地に約1ヶ月ずつ住んでは引越すという活動をしていました。
そんな活動をする中で、観光地としてではなく、暮らす場所としての各地それぞれの面白さを感じ取りたいと思っていた。
そんな背景もあって、今住んでいる石川県珠洲市での暮らしも、ここならではの面白さが沢山あるなと感じています。
ただ今回に関しては、住む場所が珠洲市に変わったということ以外に、これまでのような1ヶ月程度の「中長期滞在」ではなく、もっと長期的にこの地にいることを前提とした「移住」であるという大きな変化があります。
であるならば、今僕が感じている面白さが、「珠洲での暮らし」の面白さなのか、「(中長期滞在ではない)移住」の面白さなのかは、区別して考えた方がいいだろうなと。
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結論から言うと、「中長期滞在」と「移住」の一番の違いは、人との関係の仕方の違いだと感じています。
「中長期滞在」をしていた時は、今思えば、人に向き合っていたと思います。
その人がどんな背景を持ってその場所に住んでいて、どんな想いを持って今の仕事をしているのか、そんな話をすることが多かった。
結果として、各地1ヶ月程度しかいなかったに割には、その地を離れても個人として付き合いのある人がとても多く、本当にありがたい限りです。
一方「移住」をしている今は、人と向き合いつつもそれ以上に、その地にいる人たちと一緒に別の方向を見ているという感覚があります。
町にある面白い物件の情報とか、これからどんなことをしていきたいかだとか、そういう町の話や未来の話をすることが多く、とても楽しい。
もちろんこれは僕が珠洲にきて既に2ヶ月が経っているということも要素としてあるのかも知れないけど、この感覚は、こっちにきて数週間が経った時点で感じていたような気もする。
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と、ここまで書いてみて思ったのですが、「中長期滞在と移住の違い」というテーマはまだまだ永遠に深められてしまいそうなので、別途小出しにしていくことにします。
また昨年は、「移動生活者の孤独」というのが1つ大きなテーマとしてあったのだけど、今年はそういうのをあまり感じていなくて、これも「中長期滞在と移住の違い」に関わる話なのかなと思う。
とりあえず、なかなかいい感じです、移住。
(終)
終わりに
以上です。
昨日は二郎系のラーメンを二杯食べてしまったので、完全に身体が重いです。
石川県珠洲市に帰ってきました。
珠洲には二郎系ラーメンがないのですが、「ないなら作ればいい」ということで、友達が定期的にラーメン屋をやっています。今回初来店だったのですが、完全に、完全に旨い。二郎系って作れるんだ。
珠洲の異常な面白さがこの場に詰まっている感じする。#居候男子珠洲 pic.twitter.com/BvURtw0HOp
— 木津 歩|居候男子 (@ayumukizu) July 26, 2020
またきてね!