週刊居候男子

最近考えるツイッターとの付き合い方。他

こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。

 

『居候男子』という肩書きで活動している僕は、およそ1ヶ月ごとに引越しをしながら各地を転々とする暮らしをしています。

10/13からは、福井県鯖江市にきてる。

ちなみに今は、鯖江でお世話になっている森くん(@moririful)に急遽誘われて、東京に遊びにきています。

(このブログを公開する4日の夜には福井帰るけど。)

 

今日は、この1週間で考えたことをつらつら書いていきます。

やや長いですが、見出しごとに内容が完結しているので、見出しを見て気になったものだけ読んでもらえると嬉しいです。

最近考えるツイッターとの付き合い方。他

10/28から11/3までの備忘録です。

町と接点をもつための2つの方法。

月一引越しの移動生活をしている僕は、訪れた町の特徴を、可能な限り認知していきたいと思っています。

あの町はこんな感じで、この町はこんな感じ。

この町はここが素敵で、あの町はここが面白かった。

というか、それをしていかないと、どこに住んでも体験や思考が似通ってくるので、あんまり面白くないです。

 

時々僕と同じように、旅をしながら暮らす人、あるいはアドレスホッパーと言われる人と話す中で、

「町のことを深く知るために、何か工夫していることはあるか?」

という趣旨で意見を交わすことがあります。

これについて、僕の中での一旦の結論は、「”旅人”ではなく”その町に住む人”の動き方をすること」です。

 

僕がよくやるのは、「ある場所の常連になる」、あるいは「現地でバイトをする」。

これをやって初めて、「お客さん」から「よそ者(外から来た人)」になれる気がする。

そういう意味では、3週間〜1ヶ月半くらいの長めの滞在をすることも、結構重要なんだろうなと思っています。

 

町のことを良く知るためには、町の解像度をあげないといけない。

町の解像度をあげるためには、より近くに(できるなら内側に)いかないといけません。

(終)

「みんなのやりたい」は誰かの驕り。

先日SNSでシェアされていたこちらの記事がなかなか面白かったので、これについて少し書きます。

参照:まちづくりは「クソダセェからやりたくない」とのこと(外部リンク)

本文中から、以下に一部引用する。

筆者は地方大学で教鞭をとっており、学生と一緒に様々な活動をしているのだが、数年前にふと気づいたことがある。それは、学生らにまちづくりの活動をもちかけると、微妙に嫌そうな反応をすることだ。ほかの活動には積極的な姿勢をみせるのに、である。

つっこんで聞いてみた。怒らないからなんでも言ってみろと。なお、こういう場合に正直にいうと怒る大人がほとんどなので、学生諸君は気をつけてほしい。大人は汚いのだ。

 そういうわけだから、筆者は怒らないし内緒にもすると確約した上で、本音を聞いた。答えは「クソダセェから」とのことだ。

 

大人主導の「まちづくり」について、学生目線からの不満が様々な角度から述べられているので、まちづくりに関わる方はぜひ一度目を通してみてください。

参照:まちづくりは「クソダセェからやりたくない」とのこと(外部リンク)

またツイッターではこの記事について、「いいように使われる学生に同情する意見」と、「斜に構えた学生の態度を残念がる意見」とで二分されているので、良かったらこちらも合わせて覗いてみてください。

参照:ツイッター検索結果

 

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さて、この記事を読んで、僕が考えたことも少し書いてみたいと思います。

結論からいうと、「これは本当にまちづくりの話なのだろうか」と思った。

というのも、学生が大人に対して感じている種々の不満は、大人主導の「まちづくり」ではなく、ここに出てくる大人の「コミュニケーション」のやり方に紐づいているのではないかなと思ったから。

学生の肩を持つわけでもないけど、問題は大人の方にあると思っています。

 

例えばここ。というか、本質的にはここだけじゃないか。

「学生のため」という言葉もおしつけがましい。じゃああなたは、私の何を知っているというのか。私が将来何をしたくて、どういう人間になりたいのかを理解しようとしたことはあったか。結局のところ大人たちは、タダで自分たちのことを利用しようとしているだけなのだ。

引用元:まちづくりは「クソダセェからやりたくない」とのこと(外部リンク)

 

ここで出てくる「大人たち」が、「大人のやりたい」まちづくりを、「学生のやりたい」まちづくり、あるいは「みんなのやりたい」まちづくりに変換して話を持ちかけるから、拗れる。

飲み屋で説教してくる知らないおじさんが、「君のために言ってるんだぞ!」って言ってくるとムカつくけど、それとほぼ同じ構造です。

学生からすれば「手伝ってあげていること」なのに、「やって当たり前のこと」「やるべきこと」であるかのように言われるから、モチベーションが下がる。

 

ちなみに、学生が「手伝ってあげている」意識で取り組むか、主体的に取り組むかはあくまで学生側の問題であるので、大人が押し付ける話ではありません。

大人ができるのは、学生が主体的に取り組んでもらえるような設計をするところまで。

というか、「やりたいこと」を抱えている主体は常に、周りの人に「手伝ってもらっている」意識を持つべきだと思う。

 

そんな訳で、これは「まちづくり」の話ではなく「コミュニケーション」の話だろうなと思ったし、仮にこういうコミュニケーションがまちづくりの界隈でいうある種のスタンダードであるならば、それはやっぱり見直した方がいいだろうと思いました。

 

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少しだけ補足を。

「まちづくり」の話は、比較的「やりたい」の主語が見えにくくなりやすいので、注意が必要だなと感じています。

というのも、多くのローカルプレイヤーが描く理想のまちづくりは、「みんなが主体的に考え動くまちづくり」である場合が多い気がするからです。

町くらいのスケールになると、強プレーヤーが1人で引っ張っていくには限界があるので、みんなを巻き込んでいかないといけないのは当然。

ただ、「みんなが主体的に考え動くまちづくり」というのがそもそも、ある時期までは誰か少数を主語とした「やりたい」であるはずなので、この辺りはなかなか難しいよなあと思っています。

(終)

最近考えるツイッターとの付き合い方。

(※長いです。2,000字ちょいくらい。)

 

「ツイッターとどう付き合うか」ということを、ここ数年よく考えていました。

参考:twitterの運用について考えていることあれこれ

参考:ツイッターを頑張るのはそんなにダサくなかったという話

具体的に何を考えてたいかというと、ざっくりいえば、「ツイッターを”メディア化”させるか否か」。

「腹減った…」みたいな誰の特にもならない(≒素の自分そのままの)ツイートを極力排除して、フォロワーないしその外側の人にとって有益なツイートをしていくか否か、ということです。

 

これは結構がっつりツイッターを触っている人であれば、みんなが一度は通る道なんじゃないかなと思っています。

見られていることを意識した方がフォロワーも増えるし、きっと仕事にも繋がる。

であれば、ちゃっちゃとメディア化してしまえば良い。

 

…なんだけど、どうも気が乗らない。重い腰が、なかなか上がらない。

過去に、ある日を境に突然個人アカウントをメディア化させていった友人たちから感じた微妙な”キナ臭さ”を思い出して、ブレーキを踏んでしまう。

 

こんな葛藤をしたことがある人は、きっと僕だけではないはずです。

 

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そんな僕に最近大きな影響を与えたのが、独立研究者・著作家の山口周さん(@shu_yamaguchi)です。

先日山口さんのインタビュー記事を読んで、こんなツイートをしました。

参照:なぜ山口周のツイートはエンゲージメントが高いのか?(外部リンク)

上のツイートにもある通り、ツイッターを「自分の備忘録」と語り、他者を意識しすぎない山口さんのツイッター運用スタンスに、僕はとても好感を覚えました。

 

そんな山口さんは、記事の中でこんなこともおっしゃっています。

自身の投稿について山口は、「ポイ捨てしないように気をつけている」と言う。「ツイッターはパブリックな場所。そこに言葉を出す以上、ゴミではいけないし、それが世にないときより、良い状態にならないと出す意味がない」という思いが根底にある。

 

--ツイッターはパブリックな場所

--それが世にないときより、良い状態にならないと出す意味がない

これが、今の僕にとても刺さった。

 

僕はずっと、自分のツイッターはプライベートな場所であって欲しいと思っていました。

過去に所属していたコミュニティでできた友達、シェアハウスで生活を共にした友達、地方で一緒にお酒を飲んだ友達、古くからSNS上でつながっていた友達…。

そんな僕の、”極プライベート”な関係性を維持するためのツールとして、ツイッターがあればいいと思っていた。

僕の友人向けて発信するのであれば、「有益なツイート」であることよりも、「素の自分そのままのツイート」であることの方がよっぽど重要です(多分)。

 

なんだけど、自分のフォロワーが2,000人を超えたあたりから、自分がどんなスタンスで運営していようとも、自分のツイッターがある種の”公共性”を帯びてきてしまっているなと感じるようになりました。

僕のプライベートな場として、周囲から認識されにくくなってきている。

これは、めちゃくちゃバズったツイートに、自分となんの関係性ない人からいきなり辛辣なリプライが飛んでくるのと多分同じ構造です。

 

そんな僕のぼんやりとした感覚が、山口さんが「ツイッターはパブリックな場所」と言い切っているのを見て、確信に変わりました。

もうここは、僕のプライベートな場所ではないなと。

パブリックな場所で、プライベートなことをし続けるのは限度がある。

そしてパブリックな場所に出す以上は、世の中をプラスな方向に働かせるものを出す意識は、多少なりとも持っといていいなと思いました。

参考:自分をアイコン化することは、一つの真実をつくること

 

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そんな訳で、最近は今までより少しパブリックを意識したツイートを増やしています。

具体的には、僕や僕の友人のことを全く知らない人が見ても、「理解」しやすいツイートを増やそうとしている(あくまで「納得」ではなく「理解」)。

 

暫定的なスタンスではあるけど、とりあえず、情報が整理されたツイートに対して変に嫌悪感みたいなものを感じなくなったのは良かったなと思っています。

ようやく、自分とSNSとを切り離して考えられるようになってきたかなあという感じ。

もちろん、思考と言動に差異がない範囲で。

参考:思考と言動に差異がないこと

(終)

終わりに

以上です。

今日は1編1編が長くなったので、3編にしてみました。

また来てね!