日々のこと

「他者の選択を尊重すること」は本当に優しさなのかという問題

こんにちは。
木津(@ayumukizu)です。巷ではムハンマドと呼ばれています。

 

少し前に、こんなツイートをしました。

今日は、この話を少し。

他者の選択を尊重したい

 

前提の話です。

僕は常日頃から、他者のした選択を、可能な限り尊重したいと思っています。

その人のした選択によって、僕の未来が少なからず変わることになったとしても、その人が自分で考えてした選択であるならば、僕が口を挟むべきことではないと思う。

 

それは選択をした後に限らず、選択をする前も同じです。

その人が選択をする上で根拠となる情報を開示するのはもちろんだけど、「こっちの選択をした方がいいと思う」「できればこっちを選んで欲しい」といった、その人の選択に直接影響を及ぼすような自分の意見は、なるべく言わないようにしています。

(といっても、これは努力目標なので、実際は言ってしまっている場面も多々あるとは思うけど。)

 

僕がそのように考えているのは、ひとえに「相手も大人だから」です。

誰にでも自分の未来を自分で決める権利があって、それを決める過程で、他者である自分が余計な口出しをするのはナンセンスだなと思う。

自分がお声かけをする場面

 

ただ最近は、「他者の選択を尊重すること」は、必ずしも優しさではないのかもしれないなと思うようになりました。

特にそう思うのが、誰かに次のような二択を迫る時。

 

「一緒にやるのか、やらないのか。」

 

ここでいう「一緒にやる」というのは、「(自分と)一緒にやる」という意味です。

仕事でも、遊びでも、「一緒にやる」のはなんでもいいんだけど、とにかく「自分がお声かけをする場面」。

そんな場面でも僕は、情報開示の努力はするけども、相手の選択を決定づける程の強い意見(お願い)は言わないようにしていました。

「他者の選択を尊重すること」は本当に優しさなのか

 

でも多分、それは優しさではないんだろうなと。

優しさというよりも、それは意思の弱さ。あるいは覚悟の不足。

 

誰にでも自分の未来を自分で決める権利があって、それを決める過程で、他者である自分が余計な口出しをするのはナンセンスだなと思う。

 

さっき書いたこの考え方は、別に間違っちゃあいないと思います。

でも、こと「自分がお声かけをする場面」に関しては、これは当てはまらないんだろうなと思う。

 

「一緒にやろう」と声かけすることは、「同じ未来を共有しよう」と言うことと同じです。

大げさな言い方だけど、要はそういうことであるはず。

仕事にしても、遊びにしても。自分の希望する未来に、一緒に参加して欲しいと誘うこと。

 

そう考えると、相手の選択を決定づける程の強い意見(お願い)を言わないということは、自分の見ている未来の明るさを、自分が保証しないということなんだと思います。

「絶対に後悔させないから信じて欲しい」と、言えていないということなんだと思う。

 

であれば、それはやっぱり優しさとはまた違うよなあ。

終わりに

 

以上です。

 

今日は、滞在している兵庫県香美町の「山側」に行ってきました。

山の斜面に家々が立ち並ぶ様は、それはもう壮観だった。

 

香美町は「the海」のエリアと「the山」のエリアがどっちもあるので面白いです。

 

またきてね!

 

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